2021/05/22
「内装から、外装へ。壁から、床へ。内側から、外側へ」フッコー・ドライテック・透水宣言

ドライテックとは生コン工場にて所定の配合にキーバインダー(F材)を添加して製造される生コン。SFドキュメンタリー、荒廃した100年後の未来からドライテックの普及を目的に現代に降り立った透水性夫を中心に繰り広げられる映画「透水宣言」は今回ドライテックのキーバインダー製造現場(フッコー)を訪ねた。
なんで塗壁がコンクリートなの?
1周年を迎えた映画「透水宣言」は今回いよいよドライテックのキーバインダー製造現場を訪ねた。
そこは、塗壁材メーカーフッコー(山梨県笛吹市)。
16年に及ぶフッコーと生コンポータルの来し方、つまりドライテックの歴史について。
一体、16年前に何があったのか。
どうして、老舗塗壁メーカーフッコーがコンクリートの分野に取り組んだのか。
どのようにして、生コンポータル(長岡生コンクリート)と縁が結ばれたのか。
今日に至るまで一体、何があったのか。
そんなことをインタビュー形式でヒアリングする構成となった。
「下りのエスカレーターという共通項」
当時をありありと思い出す。
互いに20代。
杉山さんは大阪の所長をされていた。
この機会に改めて杉山さんとガチでこれまでを振り返ったが、彼は正真正銘の塗壁材メーカーの人間だった。
クラフトマンシップ。
ものつくり。
4代目を数える老舗壁材企業(家族経営)に生を受けあれこれあって今に至る。
彼を取り巻く環境は常に、減産、シュリンク、低迷、いわば、「下りのエスカレーター」だった。
同世代の僕は当時コンクリートの分野で彼同様「下りのエスカレーター」に乗っていた。
「このままだと立ち行かなくなる」
互いに境遇は異なれどその危機感は完全に共通するものだ。
当時を思い出すが、「生コン工場であることが活かされるような事業がないだろうか」危機感を募らせた僕は透水性コンクリートという技術分野に出会う。
これも奇運なことに大学院でコンクリート工学を専攻していた杉山さんはその壁材メーカーのノウハウ(パッケージ、無機材、流通網、スペック営業)を同じく透水性コンクリートに寄せた。
「内装から、外装へ。壁から、床へ。内側から、外へ」
フッコーもともとの端緒は内装材だ。
言葉にすれば単純な展開のようだが、「空間を構成するものは、壁、床、天井しかない」という言葉に杉山さんのクラフトマンとしての言葉。
いつしか、対象市場が外の床(土間コン)にはみ出ていくことは自然なことだった。
そして、2つの危機感が重なることで生まれたのが透水性コンクリートドライテックだった。
そこから16年、多くの生コン製造者・施工者を巻き込み、共感を得て、「生コンラストマイルのブランド」としてのドライテックは成長してきた。
その経緯は映画「透水宣言」に委ねたい。
インタビューが終わり工場見学に移る。
なんと幸運なことにドライテックのキーバインダー製造の現場に居合わせることができた。
ミキサーで調合されたバインダー(粉体)は塩基性に溶解する特殊なパッケージに封入される。
ちょうどどこかに配送される製品(F材)を見つけた。
今では月に1,000m3分(およそ、10,000m2に適応される)のF材は全国各地に出荷され、その土地の原料に配合されてドライテックとして「地球に蓋しない」舗装として大地を再生している。
当たり前だけど、人それぞれ、企業や組織ごとに事情がある。
いい時もあるだろうし、悪い時もある。
そんな「がち」な取り組みだが、もちろん全ては1人で完結するもんじゃない。
偶然居合わせた近親者や仲間との協働を通じて具体的に世界の景色は変わっていく。
当時、本当に偶然にも、僕や長岡生コンクリートという動線(事情)と杉山さんとフッコーという動線(事情)が折り重なった。
壁、コンクリート、建築では関連することもあるかもしれないが、実情はほとんど関連性のない凸凹セットが何故か16年もの歳月を共存することになった。
兄弟のような関係性のようにも思う。
もう、あまりに当たり前すぎて、遠慮がないほどだ。
今回改めて杉山さんとフッコーを冷静に見つめてみた。
当然、真剣に、事業に取り組まれていらっしゃる。
僕だって、日々真剣だ。
誰もが、真剣。
がち。
これまでもそうだったが、これからも、そんな本気と本気が重なる交点に、本気だからこそ、泣いたり、笑ったり、感動が生まれるのだろう。
人生の目的と言っていい。
ドライテックという人と人が結びつき合う象徴としてのプロダクトをこれからも育んでいきたい。
常に感謝を忘れず、そして、自分の領域で本気を振り絞っていくより他やることはない。
この度も、誠にありがとうございました。
宮本充也