2019/12/05
【愛知】「ひょっとしたら延長線上には無いのかもしれない」大地の再生の会、フォレストガーデン、環境調和型コンクリート

先月からジョインしている大地の再生の会(フォレストガーデン)の野外ワークショップ。コンクリートやアスファルトが自然本来の機能を阻害しない。自然から排除されない。新しい文脈で調和する。「ひょっとしたら延長線上には無いのかもしれない」。
自然を中心に据えたコンクリートのあり方とは?
大地の再生の会の会員ショータさんは縄文人の生活を実践している木こり。
先日実験施工された環境調和型コンクリート舗装の前で説明を行う。
足やタイヤが踏むとふかふかと弾力のある透水性コンクリート。
ショータさん曰く、
コンクリートが大地に蓋をすると、人と自然は対立軸で向き合うことになる。
だからって今更縄文人の生活に戻れるわけがない。
つまり、現代人の僕たちはその象徴としてのコンクリートを否定するわけにはいかない。
テクノロジーの進化とサステナビリティの両立をものづくりの現場に持ち込む。
新しい文脈でテクノロジーの進化を実践する。
コンクリートは大地に蓋をする役割を担ってきた。
その基礎の上に現代の繁栄がある。
コンクリートの開発もその前提で進化してきた。
より、高機能。
より、高性能。
こうした「高い」は残念なことに「大地に蓋をする意味で」優劣を競われてきた。
テクノロジーの進化とサステナビリティの両立を図る土岐。
これまでの延長線上(高機能、高性能を志向する)にはもはや答えはないのではないか。
ここ数十年が「異常」と見做す立場。
野外ワークショップでは竹炭造りを体験。
間引きされた竹は枝をはらわれ燃やすことによって竹炭となる。
里山の循環の1つを体験することで理屈ではないなにかを感じることができる。
ワークショップから帰る車中にふと気づいたことがある。
数万年の人類の歴史から見たら70年産業生コンのこれまでやってきたことはもしかしたら「異常」なのかもしれない。
これまでコンクリートに携わる経験年数が長ければ長いほど。
この考え方には反論してしまうのかもしれない。
なにせ、これまでの蓄積が否定されてしまうのは僕だって辛い。
19年コンクリート工学の蓄積を必死に勉強してきたのだから。
「あ、それ、全部違うよ」
となったら胸にポッカリ大きな穴が開くようなもんだ。
でも、実際、ドイツの植木職人モニエが生み出した鉄筋コンクリート(コンクリート工学)の延長線上にはひょっとしたら自然と調和するコンクリートは立ちあらわれないのかもしれない。
弾力のある路盤。
水も空気も流通するコンクリート舗装や路盤工。
僕も含めてコンクリートや舗装の専門家が聞いたら「なにをとんちきな!」と思ってしまう。
けれど、ショータさんにとっては「そっちの方が美しい」「いいじゃん」となる。
これは否定されるべき直感なのだろうか。
それとも、何かしらのヒントを孕んでいるのだろうか。
もし、この70年の蓄積の延長線上にサステナビリティが無いとしたならば。
新城の里山の景色を眺めながら考えていたことは概ねそんなところだ。
宮本充也
あああ