2018/11/04
「コンクリート打ち放しの本質とは何か?」

打ち放し。鉄筋、型枠、打設、養生、脱型、そして悲しいかな補修。万に一つも同じ打ち肌が再現されることはない。そんな、打ち放しは【描く】時代?無限に広がるコンクリートの夢。
無限に広がるコンクリートの夢
※この杉板型枠で施工されたかのように見える、打ち放しコンクリートは【描かれた】もの。信じられる?
※杉板の「ふし」の部分もまさかの「描かれた」もの。
※接写でもこのクオリティ。玄人だってわからない。打ち放しの真実ってなんだろう?
※「一つとして同じ表情のない」という意味では打ち肌と何が違うだろうか。
※打ち放しの本質とは。
打ち放しの本質とは?
この価値を世間に知らせようと10年前駆け出した頃。
「偽物は嫌いだ」
わかったような顔で設計の先生に断じられた記憶がある。
苦労して、
鉄筋と型枠を組んで。
丹念に打ち込まれ(生コン)。
じっくり締め固めタンピングが行われ。
その後も養生をじっくりしてから、
脱型した打ち肌に神が宿る。
ジャンカ(施工の不具合)も神様からの贈り物さ。
なんとなくその当時はそんなもんかとふむふむ聞いていたが、
お施主さんでジャンカを喜んでいる人もいなければ、
綺麗に打ち上がったと思っていた現場代理人さんが、
お施主さんと設計事務所に価値観の違いからガミガミ言われて肩を落としている様子を何度も見てきて。
打ち放しの本質ってなんだろう?
そんな風に思うことがある。
※一本一本の縞も丁寧に筆で再現されている。その肌には万に一つ同じものはない。人が描いたものだからだ。
ピカソやゴッホの絵も「描いたもの」だから偽物ってこと?
絵や小説に感動をしたことがない人はいる?
絵だって小説だっていわゆる、「虚構」。
それを否定している人を僕はついぞみかけたことがない。
それと一緒で、
描いて打ち肌を表現する色合わせという技法はアートであるはずだ。
間違いなく、虚構。
それは、人の意識が生み出した虚構。
そして、その虚構に多くの市井の人たちが感動をする。
「ありがとう」
そう言ってくれる。
綺麗な打ち放しコンクリートの家に住めることが嬉しい。
しくじってしまった打ち肌が見事に美を取り戻し助かった。
そんな声が多数寄せられるこの「虚構」は、
本物ではないいことで軽視されるべき価値なのだろうか?
ちょっと悪ノリかもしれないけど。
巨匠と呼ばれる第一線の建築家を100人集めて、
「どっちが本物でしょうか?クイズ」
をやっても勝てる自信がある。
きっとテレビ番組で価値を見出すことのできないタレントたちのように。
彼らはきっとその「偽物」に騙されることになるはずだ。
打ち放しの本質とは人を喜ばせること。
それが筆であっても。
鉛筆だったとしても。
そして、型枠面に凝集されたモルタルのマーブル模様だったとしても。
打ち放しの本質とは人を喜ばせること。
僕はこの打ち放しの作業中ずっと喜んでいた。
その美に感動していた。
そして、コンクリート打ち放しというものは、
常に人を感動させるからこそ不朽の人気を誇っている。
いついかなる時代にも打ち放しコンクリートの魅力は不変だ。
どんなアプローチであったとしても、
人がその強みを生かして丹念に努力して作り上げた「形」が人を喜ばせる。
その連続が社会を形成している。
打ち放しの本質をどこから目線かわからんが独善的に語るまえに。
まずは、人を喜ばせたい。
人を喜ばせる能力を磨きたい。
これからさらに、無限に広がる打ち放しの魅力が世を照らす。
宮本充也