2019/08/16
「失われたコミュニティーを取り戻す」生コンがつなぐ地元と地元の「人」と「もの」

生コン工場は生コンを製造する工場というだけではもったいない。70年近く生コンはそれぞれの地元で地元の人に水の次に流通する材料(生コン)を届けてきた。その動線はきっと何かの役に立つはず。「失われたコミュニティーを取り戻す」生コンの役割。
https://www.nr-mix.co.jp/dry_tech/blog/web_1.html(庭コン)
https://www.nr-mix.co.jp/new_nama/blog/post_128.html(人手)
なにかと評判の悪い生コンだけど地元の役に立ちたい
「大変なことになりますよ」
https://www.sankei.com/west/news/180828/wst1808280041-n1.html
無認定生コンを12年間出荷
https://www.asahi.com/articles/ASL5Y5H1QL5YULFA01W.html
生コンは触りづらいそうだ。
とある大手マスメディアの見解。
闇が深い。
とある地域では「私は生コン工場です」と名乗ることは「私は反社会勢力です」と名乗るのと同意だそうだ。
生コン入職当時驚いたものだ。
「生コン工場で仕事しています」
「そのわりに線が細いね」
一体僕たち生コンは世間でどのように思われているのだろう。
水の次に流通する材料「生コン」。
これがなければ現代の繁栄はない。
繁栄の前提。
日本中を網羅する供給網。
その数は3,200とも言われる。
生コン産業に身を置く1人として、生コンに対する世間のイメージを常に悲しく思っている。
そんな生コンがもっと明るいイメージに。
繁栄の前提らしい貢献をするために。
僕は生コン工場の再定義が必要だと強く思う。
生コン工場を別の視点で捉えると?
透水性コンクリートの普及活動に伴い全国の生コン工場との関係性が生まれた。
全国津々浦々。
人が住んでいないところでさえ、ダムは橋などのインフラを支えるために。
生コン工場は操業を求められる。
地域経済活動があるところには必ずある。
生コン工場の捉え方をより抽象的に定義づけると、その役割を広げることができるのではないか。
そんな着想から今年【庭コン】が始まった。
まだ、コミュニティーがあったころ。
お隣さんは誰それで、どこに勤めていて、隣町には何があって。
そうした時代には経済はコミュニティの中だけで成立していた。
いつしかコミュニティは失われ地元ではない会社にお金を払い地元ではない会社から発注された地元の個人(施工者)が地元の個人(施主)に役務を提供する時代となった。
情報を握られた地方の個人(施主、施工者)はさながら目隠しをされているかのように。
選びたいものを選べない。
やりたいことをやれない。
そんな風になってしまった。
地元生コン工場が地元の施工者と地元の施主をつなげる。
それが、庭コンの挑戦だ。
生コンといえば少なくとも10年以上その土地で地元との関係性を築いている。
その土地にどんな施工者がいるのか。
その施工者はどんな人物なのか。
生コン工場が地元のハブとなる。
情報を握られ地元で埋もれている、ヒトとモノ、ヒトとヒトをつなげる。
(ヒトとヒト:https://www.nr-mix.co.jp/new_nama/blog/post_128.html)
生コン工場にとってみれば朝飯前だ。
元々生コン工場は地元に溶け込み経済活動を行ってきた。
その導線に「生コン」だけでなく、もっと色々載せる。
導線は多く流通すればそれだけ活性化される。
生コンが地元と地元の架け橋になる。
新しい貢献が果たせる。
無論、手数料なんか取らない方がいい。
(あるいは必要最低限の経費をガラス張りにして受益者負担を依頼する)
広告・宣伝なんかも要らない。
管理費なんかもいらない。
地元と地元の経済活動に管理や統制なんか不要なはずだ。
もともとコミュニティとは自己組織化へ向かう個人と個人が織り成すエコシステムだったはずだ。
ヒトとヒト「施主」と「施工者」
ヒトとモノ「施工者」と「資材(生コン含む)」
ヒトとヒト「施工者」と「施工者」
今後こうした視点から生コン工場が地元で果たせる新しい役割を具体的なサービスとして続々展開していきたい。
そのことで失われたコミュニティが取り戻されるなら。
思いやりの通った人間関係が日本中に溢れるのなら。
それこそが、地場産業生コンの果たすべき役割だ。
宮本充也