2016/05/23
鈴木さん「50周年記念誌インタビュー」
実に何ともはや涙が滲む。
普段お仕事でご一緒している、弊社にとってかけがえのない方々。
もちろん常に気持ちは感謝でいっぱいだが、
今、50周年を迎え、記念になることも何もしないのも寂しいということで、
従業員全員で、「50周年記念誌インタビュー」をお客様に実施しているところだ。
もし、僕の仲間からそんな依頼がありましたら、ぜひ快く対応してください。
今日の訪問先の鈴木さんは、すでに引退されて久しい70歳を迎える方。
昭和42年に就職し、48年に静岡県を任じられた経歴をもち、
当社長岡生コンともそのころから取引が少ないながらも始まったと聞く。
セメント会社の計らいで、僕の父とは何度も旅行をともにしたり、親交が厚かったようだ。
昭和56年(僕が3歳くらい)、鈴木さんが会社の社長と連れだって、表敬訪問に自宅にいらっしゃったとき。
僕がおもちゃの刀をふりかざしてちょろちょろと現れたとき、
上司である社長が僕をみて、「いやあ、かわいいお孫さんとごいっしょでいいですねえ」と声をかけると、
「いやいや、息子でして」と父。
56の時に生まれた僕と父はまるで世間ではおじいちゃんと孫。
その後鈴木さんは玄関を出た後、社長から「なんであらかじめこうゆう大切なことを言わないんだ!」
と笑顔交じりに叱られたという。
鈴木さんの尽力と、当社先輩(串田ら)の交流で、会社同士の取引は次第に広がっていったという。
時代がよかったのもあるが、全共連の中伊豆の施設では実に膨大な生コンでお世話になったそうだ。
また、今ではとても考えられないが、石油ショックの時には「セメント割当制」が敷かれ、
待てども待てども、なかなかセメントが配給されなかった時代も、ほんの昔のできごと。
当社月刊誌NR Times10周年が12月に迫る。
50周年記念誌とNR Times10周年を重ねて、記念にしたいと思う。
それまで、少しずつだが、これまでお世話になってきたかけがえのないみなさんに、こうしたインタビューを繰り返したいと思う。
まさか、ここまで、感動のあるものだとは、やってみて初めて分かった。
・斜陽産業
・硬直型
・イノベーションがおきづらい
・たかがセメント、生コン
されど、
セメント、生コン。
今、僕たちが当たり前に天職として取り組んでいるこの仕事、
鈴木さんもそうだが、多くの夢を持ちそして楽しんだ先輩たちの手により、
業界があり、そして長岡生コンがある。
その功績に感謝をし、そして、これからの時代に求められることを、この時代の当事者として創造していく。
この職業に就くことができて本当に幸せだと思う。
宮本充也