2016/07/04
「MAPEI Second Edition in Japan」
1949年11月15日に誕生した生コン産業。
どのように発展してきたかというと、
御多分にもれずセメントメーカーと政府が指導した。
日本列島が史上まれに見る成長を臨み、
社会インフラの基礎資材としての生コンクリートが膨大に必要となる。
強烈なリーダーシップを発揮して国とセメントメーカーが産業の点線を描き、
それが実線となって次第に全国で生コンが買える国になった。
具体的に言うと、当社長岡生コンの歴史がわかりやすいと思う。
長岡生コンは宮本家100%出資の家族経営企業。
家柄は古く、小田原の大名北条早雲にまでそのルーツはさかのぼる。
僕の先祖は大名から、
虎朱印
と呼ばれる証明書を発行してもらい商いをしていたそうだ。
つまり、地方の名家。
今では見る影もないけれど、伊豆長岡の中の広大な土地を所有していたそうだ。
そうした地方に点在する小金持ちがセメントメーカーのターゲットとなった。
「生コンって商売がこれから来ますよ」
という宣伝文句にのって地方の小金持ちがわんさと生コン業を始める。
車のディーラーの発達の在り方と似ているかもしれない。
ピークは5000を超える生コン工場が日本各地で創業され、
そもそもの創業のきっかけは、
・Innovationとともに社会に信を問うのです!
とかではなく、
・あるお金をいけてる市場に貼りました
という資産家的スタートとなる。
だから、創業のきっかけとなったセメントメーカーや国に頼るのが遺伝子に組み込まれてしまっている。
・市場→販売店や協同組合
・技術→JIS A 5308はセメントメーカーの技術職員から手とり足とり学ぶ
主要な機能を他社に委ねてしまって、「お金だけ出した」というのが、
当社長岡生コンクリートの操業についても同じことが言える。
67年が経過した。
高度経済成長、バブル経済、リーマンショック、人口減少。
なかなか経験できないほどの山と谷を生コン業は経験した。
マイナス面ばかりを強調してみたが、
グローバリゼーション、IT革命、環境循環型社会。
レールを敷いてくれた国やセメントメーカーにこれからも頼りっきりで持続可能ならまだしも、
これからは新しい文脈を「主体的に」導き出していく必要がある。
よく言われる「自分の頭で考える」というのは、簡単そうで結構難しい。
ただ、周りを見渡してみれば同じような境遇の人たちがたくさんいて、
そうした危機感を持つ有意なる出会いは以前に比べれば身近になった。
県外だけでなく、海外にまでその機会を求めることができる。
産業内だけでなく、産業外にまで。
多国籍大企業MAPEIとの取引も7年目に突入する。
少しずつ成果がいろいろな分野で得られているが、
今年は「突き抜ける」ことを目標としている。
この時代、僕たちにできないことはない。
これまで積み重ねてきた努力や人脈が、今年いい意味で破裂する。
そんな会議がこの1週間始まります。
宮本充也
