2016/01/16
「超素晴らしい」ものづくりのあり方
「超素晴らしい便器なので、1日30回用を足してしまいました」
「トイレにイノベーション。社会現象に」
「超素晴らしい」
という言葉には売り手側の理屈と買う側の理屈がつねに存在しています。
とかく売り手・作り手は基本その仕事のことばかり考えているので独善的になりやすい。
「すごい便器を作り上げたのだから、きっとトイレ需要が増大するはず」
「このトイレの価値がわからない消費者はバカだ」
こんなことがありえないのと同じように、私たちが作る生コンにも「超素晴らしい」という価値はありえません。
朝、用便の最中便器が「今日も素晴らしいお尻ですね。今日もいいことありそうですね!!」と喋られたら気持ちが悪い。
トイレでは極力静かに快適にその日1日に想いを馳せたり耽たりする時間にしたい。
それと同じように、生コンクリートも需要先である住む人に価値を提供するというよりは、それを使う人に利便性を提供することが求められると思う。
コンクリートが毎日主張したら落ち着かない。
あまりにも当たり前でそのありがたみを忘れるくらいで丁度いい。
「俺、支えてますから!!」
家の基礎の方からかすかに声が聞こえてきたらいやだ。
便器も生コンもきっと「超素晴らしい」を求められているのではなく、「あ、いたんだ?」というさりげなさ、主張のなさ、あたりまえさ、が求められていると思います。
生コンクリートは水の次に流通する材料。
水や電気と一緒。
あまり主張しない方がいい。
つまり、あまり面倒臭い存在でない方がいい。
いちいち主張しない方がいい。
ものづくりにあたる技術者はついつい高性能を求めてしまいます。
私も含めて、プロは本当に必要な価値はなんなのか、という出口をつねに念頭に入れて開発をしなくてはなりません。
「昔は水たまりってのがあって、靴が濡れたりしたらしいですね」
「昔の生コン工場では、戻りコン、という生コンのゴミに苦労していたんだって」
「雨の日は生コン工事ができなかったそうですよ」
超素晴らしいことを作るのではなく、「今となっては当たり前」をつくる。
そんな存在でありたいと思います。
宮本充也