2018/09/10
「どうして僕たちは生コンを続けるのか?」
未来についてわかっている唯一のこと、それは現在とは違うと言うことだ。未来を予測しようとすることは、夜中にライトをつけず、後ろを見ながら田舎道を運転するようなものだ。未来を予測する最善の方法は、それを作ることである。(ピーター・ドラッカー)
どうして僕たちは生コンを続けるのか?
毎日せっせと記事を3本書いてWEBにUPしたり。
国内外生コンに関する技術を見聞して回ったり。
工場は地域社会に生コンクリートを製造して届けていて。
どうして僕たちは生コンをやっているのか?
日頃の忙しい実務に追われ大切な動機を見失うことってないだろうか。
たくさん売り上げてたくさん収益を得ることが目的なのか?
たしかに売り上げが低迷するよりは、
安定的な収益が見込める時の方が安心だ。
ただ、利益とは空気のようなもんだと、冷静になればわかる。
たしかに空気がなければ僕たちは生きていくことはできないけれど、だからといって呼吸するために生きているわけじゃない。
金のため?
糊口をしのぐため?
そんな動機付けで生コンをやっているわけじゃない。
そんなことは少し冷静に考えれば自ずと知れること。
じゃあ、なんで僕たちは生コンをやっているのだろう?
たくさん、生コンを出荷することはいいことなのか?
断片的に見ればたくさん生コンを出荷することは増収増益となる。
ただ、全体から見ればそれだけ地球の恵み(山河)が削られることになる。
先週当社を見学に訪れた一般の人が驚いていた。
「え?一切廃棄物を外に出してないの?」
生コン工場操業に伴い発生する、
残コン(コンクリートガラ)やスラッジ(汚水)
これらの大半は騒音、振動、粉塵を発生させ、
スラッジの処分は最終処分場に埋め立てる他ない。
つまり、有限なスペースが少しずつ汚染されていく。
そのしわ寄せは言うまでもなく未来の子供達につけ送りされる。
現代の生コン産業の前提には確実に迎えるべき最期がある。
その最期を迎える以前にすでに地球の悲鳴は聞こえる。
このところ頻発する自然災害はどうだ?
それでも僕たちは無感動に生コンを続けるのか?
無責任なメディアが報じる悪としてのコンクリート。
「コンクリートから人へ」
なんてプロパガンダもあった。
ヒートアイランド現象の理由は地表をコンクリートで被覆するからだ!
解決策も持たずヒスを起こす世論。
厳密にいえば舗装の95%はアスファルトであるのに。
たった5%しか用いられていないコンクリートが環境破壊の代名詞にされる。
本来降雨はむき出しの地表面から地下水系に還元される。
それを舗装することで表面を流れる水をコントロールするために、
(そもそも自然をコントロールするということ自体が人間のおごり)
排水設備をコンクリートで整備する。
そのコンクリートは上流の山河を削ることで得られる。
削られた山河はもっと怒り暴れる。
濁流に対抗するために治山事業が展開される。
山河を削って得られた原料を用いて怒り狂う山河を抑え込もうとする。
この不毛な争いはどこまで続く?
生コン産業という断片的視点からいえば自然が暴れてくれた方が短期的収益があがる。
とある山間部の生コンに従事する同世代が言う。
そんな自然災害を期待する仕事でいいのか?
みんなが困る自然災害のおかげで成り立つ産業。
誰かが濁流に飲み込まれて命を落として、そんな自然の脅威をさらに抑え込むために用いられるための生コンクリートを僕たちは作りたいのか?
どうして僕たちは生コンを続けるのか?
自分の土台を削って、
その崩れる土台を崩れないように生コンで絆創膏。
ますます脆くなる。
ますます削られる環境。
脆く崩れる砂の土台の上で未来の子供達に先送りする産業。
現代社会の前提に立てばそれでも必要な生コンクリート。
でも、その出荷数量は少なければ少ないほどいいに決まっている。
そのジレンマの中で産業人としての僕たちが選ぶべき道。
どうして僕たちは生コンを続けるのか?
そんな本質的な問いに対しての答えを求め続ける。
存在目的に耳を傾ける。
今朝僕は京都議定書の街、古都京都で目を覚ました。
よく言われるサステナビリティ。
議論は技術に傾きがちだけど、
すべからく技術を含む産業(業態)としての生コンを模索するべき。
未来についてわかっている唯一のこと、それは現在とは違うと言うことだ。未来を予測しようとすることは、夜中にライトをつけず、後ろを見ながら田舎道を運転するようなものだ。未来を予測する最善の方法は、それを作ることである。(ピーター・ドラッカー)
どうして僕たちは生コンを続けるのか?
無感動にならず、この問いの答えを常に探し続けていたい。
それはただ探し求めるものじゃなくて、
ひとりの当事者として形にすべくコミットメントすべき未来だ。
宮本充也