2020/05/22
「砂利商の将来に不安」「当時の生コンブーム」長岡生コンクリート創業の経緯
コロナも鎮静化し始めいよいよ通常のライフスタイルが戻って来つつある。旅先の福知山で先代や70年産業生コンを支えてきた多くの人たちに思いを馳せる。長岡生コンクリートは創業から55年目。生コン工場創業の思いは未来へ引き継がれる。
1973年創刊「生コン名鑑」(セメントジャーナル)
透水性コンクリートの製造にご協力いただくサンコー生コン(福知山)を訪ねた(https://www.nr-mix.co.jp/dry_tech/blog/diy_39.html)。
創立から50年近い歴史を数える同社のオフィスはRC打ち放し建築で開口(窓)が床から天井まで広く放たれ開放的で工場内を見渡せる素晴らしい建築物。
いずれの生コン工場も創業から50年前後は珍しくない。
そんな同社の役員室の棚に置いてある書籍にふと目が止まる。
もはや骨董品と言っていい。
現・コンクリート新聞社から1973年(僕はまだ生まれていない)に発刊された「生コン年鑑」。
そこには全国の「よく耳にし目にする」生コン工場の名前が多く掲載されていた。
今年55期を迎えている生コンポータル運営の有限会社長岡生コンクリートはこの当時すでに創業しているはずだ。
緊張で少し手が震えながら静岡県のページを繰る。
そこには創業から10年目の長岡生コンクリートの記事があった。
「砂利商の将来に不安」
「当時の生コンブーム」
創業の経緯と共に、父であり創業者の宮本辰雄、そして番頭として活躍していた「串さん」こと串田雄志の名前がある。
当時も今と同じく地元生コン組合に所属していたようだ。
当時の長岡生コンの様子は今では半ば伝説のように語られている。
ピンクのダンプ10台以上が街道を我が物顔で疾駆する宮本建材。
当時界隈では「ピンク軍団」とやんちゃな人たちに恐れられていたという。
そして、記載にもあるように砂利商から隣接異業種である生コン製造に舵を切ったのが、55年前。
僕が入職した当時その頃の名残を残す屈強な人たちがまだ多少勤務していたが、今やほとんど引退されてしまった。
まさか遠く離れた福知山のこちらも歴史ある生コン工場で自分たちの来し方に触れるとは思いもよらなかった。
当時も、そして今も、大切なのは環境変化を感じ取って変態すること
「砂利商の将来に不安」
頼もしく優しい思い出しか残っていない偉大な父親辰雄も55年前には危機感や不安に苛まれていたようだ。
今の僕にはもちろん夢に対しての高揚感や使命感もあるけれど、同時に生コン業という業態の将来に対する不安感も強い。
入職してからこっち20年間一貫して下のエスカレーター。
僕と同い年の山城生コン山城工場長も職歴を振り返り同じことを言っている。
ロストジェネレーションど真ん中。
バブルを謳歌した世代から一転僕たちの入社からこれまでは散々だったように振り返る。
ただ、試練は人を鍛え進化させる、というのも同時に感じていることだ。
ひとときも安定や安心を得られない生コン経営の中で僕たち世代は常に変化を余儀なくされた。
バブルをどっぷり謳歌した現在の60〜70代の生コン理事の方々と違って僕たちは常に変化を志向してきた。
静岡の生コン屋さんが京都の福知山で仕事をしている。
この事実こそが変化してきた証拠と言っていい。
地元経済の不沈にそのまま左右される脆弱な業態である生コン商に不安を感じ、僕たち生コンポータルはここ20年一貫して変化をし続けてきた。
挫折や失敗も多かったけれどその取り組みは今やBtoCという新しい分野に結実を始め、全国各地の生コン工場にこれまでになかった全く新しい市場を拓こうとしている。
透水性コンクリートや環境再生生コン(残コン再生)の流通だ。
「生コンは90分の壁の中で操業しなければならない」
という鎖を僕たちはいよいよ断ち切り垣根を越えてグローバルかつローカルに協業し始めている。
これは最初から筋書きのあったストーリーの結果ではない。
目の前の環境変化に都度ジタバタと変化を繰り返した結果が今の世界を作っている。
生コンは今大きく変化しようとしている。
生コン名鑑を眺めながら、そしてこれからもきっと片時も平穏や安定なんてことはないのだろう、仮にあったとしたらそれは現実を冷静に分析できていない証拠なのだろう、そんなことを考えていた。
これからも僕たち生コン産業は市場と顧客の要請を冷静に見つめ、求められる姿に変化していくべきなのだと思う。
そして、そのこと自体がとても意義のある素晴らしいことなのだと思う。
生コンはもっともっと貢献できると信じている。
宮本充也