2021/02/13
「何になりたいかよりも何をやりたいかが最も大事」組織運営について
世間を見渡すと生きるのが辛そうな人を見かける。何かに囚われている、何かに縛られている、本当の自分ではない他人の仮面をかぶって生きているから息苦しい。僕は共に働く仲間になるべく清々しく健やかに仕事をして欲しいと願っている。「何になりたいかよりも何をやりたいかが最も大事」。組織運営について。
やりたいことをやろう
痛ましい事故が起きてしまった。
長岡生コンクリートの事業所内で洗車中に生コン車から転落し腰を強打する事故が発生した。
大切な仲間が大怪我をしてしまった。
安全管理には万全を期しているつもりでも製造現場には常に危険がつきまとう。
「防滑テープを貼り始めてた矢先だったんですけどね・・・」
構内の安全管理に責任を果たす池上さんが悔しそうにこぼす。
「洗車用の足場を設置しましょうか?」
⚫︎参考記事: 「ステップからあわや転落。ひやっとしたことあるよね?」まるせ洗車場足場(コンクリートテクノ)
以前コンクリートテクノで読んだことのある洗車用足場のことを思い出して言った。
例えお金がかかっても安全は何にも優先されるべきだ。
「そうですね。でも、まずは、みんなが安全のために何を欲しているのかを聞いてみたいです」
何気ない池上さんの一言に僕ははっと気付かされた。
何事も、仮にそれが善意だったとしても、人は押し付けられることを好まない。
善意からといっても、慣れない洗車用足場からの洗車を義務付けられることを、実際に働く人たちはどのように捉えるだろうか。
「会社からの強制」
そんなふうに捉えられたら元も子もない。
何にも優先されるべきは当事者が何をしたいか。
何をやりたいか。
いろんな会社組織やそこで働く人々を見ていて強く思うことがある。
会社や仕事ってのは基本的に誰かの役に立つためにある。
一方、仕事をしている人たちの顔は役に立って喜んでいるようには見えない。
なんだか真面目に、難しそうな顔をして、何かに我慢しているように見える。
きっと家庭ではそんな顔をしていないんじゃないだろうか。
もっと笑顔も多いのではないか。
リラックスしてその人本来の魅力溢れる本当の自分。
職場に行く前に、人はそんな本当の自分を、部屋着と一緒に家の中に置いてきているように見える。
本当の自分のままで職場に出勤するのは危険なのだろうか。
子供や近親者に見せる優しい素顔で職場に来ることは同僚たちに馬鹿にされる?
世間の常識や組織の戒律、或いは自分がどのような印象を人に与えるべきか、そんなことに囚われている人がとても多いように思える。
僕は、思う。
人は、「何になりたいか」を志向していても永久に幸福にはなれない。
例えば、学校の先生になりたいとか、弁護士になりたいとか、経営者になりたい。
その、何かになろうとする行為は常に自分自身を縛りつける。
自分は、自分でしかないのに、別の誰かになろうとする。
仮に、念願の医者になったからといって、そこでそのまま幸福が続くということではない。
新しく生まれる「何か」になろうとして悶々とした歳月が繰り返される。
大切なのは、何をやりたいか。
その時の欲求に素直になること。
ふと気を抜くとこの僕もやってしまう「会社のルール」という強制。
何かことが起きるとその度に組織は2度とそれが起きないようにルールを設定する。
安心・安全を守るという大義名分があるから、それは誰にも反論の余地を与えない威力を発揮する。
ルールは本来人を守るためにある。
ただ、「このルール一体なんのためにあったんだっけ?」そんな今ではその由来が忘れられてしまったような会社ルールに心当たりはないだろうか。
随分前に設定されたルールでその理由も定かではないのに、「ルールだから」とにかく人々が従っているそんな習慣。
このところいい歳こいてルールについて僕は懐疑的になっている。
そんなルールは大昔奴隷制度を容認していたのだ。
そして、僕たち生コン製造者が絶対遵守を要求されるJIS規格も僕はとてもそれがイノベティブな技術を許容するものにはうつらない。
どちらかというと、新しいものを排除するかのような閉鎖的で画一的なもののように見える。
好き好んで怪我したいなんて人はいない。
誰もが、安心や安全を求めている。
人は変化することが嫌いなのではなくて、変化を強要されることに抵抗するのだ。
今回起きてしまった事故は2度と起こしてはならないものだ。
ただ、そのことをもって組織は何か新しいルールを設定しなければならいとは思わない。
ルールで人をがんじがらめにしてはならないと思う。
大切なのは、実際にその業務に取り組んでいる人々の主体性。
何になりたいかではなく、何をやりたいか。
本来の自分。
周囲の誰かに押し付けられるのではない。
楽しくて安全な仕事を希求する本来の自分が何を求めているかが最も大事。
何をやりたいか。
今回のような事業所内での怪我が起きると組織の実力が試される。
組織の「上」が「良かれと思って」設定するルールは結局人を縛りつけ窮屈な思いをさせることになる。
鎖にはめられた状態で仕事をする方がよほど危険だ。
人は誰かに何かを強制することはできない。
「小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり」
人はその人が本当にやりたいことを追い求める権利(そして義務)がある。
何かをすることで苦しんだり喜んだりする権利がある。
責任は他人ではなく自分自身が全うする。
いかに善意とはいえ、他人が先回りしてその責任を取り上げることは許されない。
「やりたいことをやる。会いたい人に会う。自分で責任を取る。」
僕の大切にしている信条だ。
組織、仕事が回っていると、いいことばかりではない、ときにはアクシデントだって起きる。
ただ、特定の誰かがそうしたアクシデントが起きないように統制する必要はない。
社会経済が特定の意図により統制できないことは歴史が証明している。
組織においてのみ統制できるなんて幻想だ。
僕は経営者として逃げているのだろうか。
経営者は組織にいる人を守る義務があるのだろうか。
組織にいる人たちは誰かに守られるべき自立できない子供のような存在なのか。
僕は、そう思いたくないし、そんなはずはないと思っている。
一人一人が何をやりたいか。
どう生きたいか。
そんなことがしっかりと尊重される組織環境であることに僕は心血を注ぎたいと思っている。
1日も早く回復されることを心待ちにしています。
宮本充也